ご近所のマダムが「孫に友達がいなくて心配だ」という話をされていた。
「欲しいのかな?本人は気にしてないの?じゃあこのままでいいのでは?」という会話でしたがどうにも友達は必要と思っていらっしゃるご様子
ここで自分の子供時代の回想~
-ぼんやりとした子どもだった小学生時代の私。ちょっと変わった子だったのは通知表の先生からの一言でもわかる。大人になった改めて読んだ感想は「びっくり」の一言であった。
「お友達がいないわけではありませんが、一人でいることが多いです。誘われば楽しそうに遊んだりしますが自分からは誘って遊びません。もう少し積極的にお友達と遊べるようになるといいですね」
確かこんな言葉が毎年のように書かれていた。
とうの本人は「わざわざお昼休みにグランドに行くよりも怪人二十面相の本を借りに図書室へ行きたい」とか「筆箱をみんなで買いにいくらしいけれど私の筆箱は買ったばかりだからいいかなぁ」くらいの気持ちで過ごしていました。学生時代は小学校からすでに決まったグループに一つも属しておりませんでした。
多感な中学時代は運動部に所属していたり各学生時代には話す友達はいますがグループという付き合い方ではなかった。仲間意識を試されるような校則違反(買い食いなどね)も、したくなかった。真面目というよりその後に展開される面倒くさいもろもろを想像するとうんざりしたというのが理由です。
あの木の実はたべられるんだよと教えてくれたのは小学生時代の友達
ビートルズを教えてくれたのは中学の部活の友達
高級ブランドを教えてくれたりお給料の三分の一ほどの高級な食事に誘ってくれたのは同僚
数えきれないほどのその時々の友達にいろいろなことを教わって生きてきた。
だがここで思うのはどれもいつも一緒にいた友達ではないということです。一人でいることのデメリットは修学旅行などの寝食をともにする場合にどのグループに入れられるのかがわからない。もしかしたらあのいつも大声で他人をバッシングする女子カーストの一番上の人の隣のお布団になるかもしれないということくらいです。(本人がこのことをとてつもなく苦痛に思う場合も有ると思います)
一人なんでみんなが決めたあとに入れるところにいれられるという感じでしたが、かえってグループの人たちに気をつかってもらっていたように思います。
ひとつ思うのは人間関係はまったくないと寂しい。
ありすぎると大変。
という事なんだろうと思います。昨今は距離感と言いますが距離感が理解できる人いればまったく理解できない人もいるものです。
団体での生活は苦しい。
子どもながらにそう思っていたので無意識にグループに入らなかったのかもしれません。
現在は友達と呼べるひとはいますが、やはりべったりとした関係からは程遠く1年に1度会えばいいほう。一番会っていない友達は30年も会っていませんが毎年同じ時期に美味しい果物やお土産を贈りあっています。その時に「届いたよ~。元気にしてた?そうかぁ今年は大学受験なんだね」など近況を少し話すのみ。
それでも私はその友達が大好き
いろいろな友だち関係があると思うし、子供時代に親友に巡り合えることもあれば大人になってから親友が現れるかもしれない。
もっと言えば仲良かった人たちが一人、二人とこの世界からいなくなっていく未来を考えると一人で過ごす時間をちゃんと持っておいた方がいいのかもしれないと思ったりします。
若いうちはいろいろ考えるけれど・・
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